明けましておめでとうございます。
今年が、皆様にとって輝ける一年になられますように心からお祈り致します。
さて、お節料理は如何でしたか。
お餅は、何個食べましたか。
金沢のお雑煮は、鰹節や昆布・寿留女(するめ)で出汁をとり、紅白の丸餅を入れ上にネギかセリを乗せて頂く、とてもシンプルなものです。
その理由は、金沢のお節があまりにも豪華なためお雑煮くらいは、あっさりしたものを食べようということだそうです。
ところで皆さんの地元では、角もちと丸もちのどちらですか。
昔から東の角もち、西の丸もちと知られています。
そして、その東と西の境目は、天下分け目の戦と知られる岐阜県関ヶ原あたりとも言われます。
金沢は、ちょうどその東西文化の境界線にあたります。
しかし、武家社会にかかわらず京文化の影響からか、味覚的にはそのほとんどが関西風です。
それでは、東の角もちと西の丸もちの違いは、何なのでしょうか。
まずは、丸もちから。
金沢(西日本)では、もちを搗きひとつひとつを手でこねて作ることが一般的です。
一方、武家社会であった東日本では、「敵をのす」という語呂に因んだ縁起から「のしもち」を切った角もちを使う傾向がありました。
そして、江戸時代になると人口が急増した江戸では、のしもちを切り分けて大量に生産できる角もちが、急速に広まったと言われています。
それでは、今日の主題である「金沢は、紅白餅」に戻りましょう。
これが、我家の鏡餅です。
一番上に橙、そして「上に紅、下に白」のお餅を飾ります。大変簡素なものですが、庶民にはこれで十分です。
しかし、観光客の中には、これを見て非常に驚く人がいます。
何に驚くかというと、紅白のお餅にです。
我ら金沢人にとっては、紅白の餅が当り前です。
彼らは、一体何でビックリしているのだろう?
その訳を詳しく聞いてみると、お餅は白と白が当り前だと言うのです。
紅白なんて他所にはないよ~~。
ええ~。今度はこちらが驚く番です。
そこで早速、調べてみました。
そしてそこには、深い由来がありました。
時は江戸時代、1802(享和2)年。
加賀藩第12代藩主前田斉広(まえだなりなが)が、藩主となって初めてお国入りした際、新春を祝うために「上に白、下に紅」の鏡餅が献上されたと伝っています。
それが、庶民にも伝わり金沢の鏡餅は、紅白になったそうです。
えっ、「上に白、下に紅」って、現在と逆様じゃないの~?
そうなんです。ここにも謎があります。
それは、紅白の餅が広まった際、庶民がお殿様と同じでは恐れ多いと上下(白と紅)を逆にしたのが謂れだそうです。
今回調査してみて、金沢は知れば知るほど面白い街だなと改めて感じました。
今日は、新春に因み達じいが担当させて頂きました。
本年もよろしくお願い致します。
あんやと。
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